バリ島は、インドネシア共和国に属する島で、国内33州のうちのひとつです。州都は、デンパサール市。 面積は、東京都の2.5倍の5633キロヘクタール バリ島内の人口は、約422万人。(インドネシアの総人口約2億5千万人)国内全体では、ジャワ人(イスラム教徒)多数を占めるが、バリ島内は、バリ・ヒンドゥ教を信仰するバリ人が多数を占める。
アジア最古の人類が発見されたジャワ島。そこから3kmしヵはなれていないバリ島にも、その人類が存在していたことは、十分考えられる。バリでは、紀元前300年頃から青銅器文明の影響をうけ稲作がはじまった。8-9世紀から仏教に代わりヒンドゥ教がインドネシアに広がりバリにも流入。アニミズムの影響を受けた独自のバリ・ヒンドゥ教へと発展した。その後13世紀から16世紀にかけて東ジャワの侵入を繰り返し受け、18世紀には、バリは、8つの国に分裂する。各地に拠点をおいた貴族たちは、宮廷文化を根付かせた。1597年には、オランダの船が始めてバリを訪れ、1849年バリ北部と西部を制圧。植民地支配が徐々に広がっていった。バリ戦争勃発後の1908年、最後のクルンクン(スマナプラ)王朝が滅ぼされて、島全体がオランダの支配下となる。1920年代には、ヨーロッパの芸術文化がバリに伝わり、人々は、そこから伝統に縛られない芸術、文化を生み出していった。第2次世界大戦時には、日本の統治も受けるが1945年にインドネシア共和国として独立後、ひとつの州となる。
イスラム教徒が88%を占めるインドネシアでバリは、ヒンドゥ教徒が90%を占める。その他イスラム教やキリスト教、仏教など。身分階層は、インドほど厳しくはなく、身分に応じて名前が異なり、話す相手の身分に応じて言葉を使い分けるが、身分の違う者同士の結婚も可能。バリでの日常生活には、さまざまなヒンドゥ教文化が色濃く残っている。
大東亜戦争中にバリ島は大日本帝国の占領下に置かれた。1942年2月、日本軍が進出を開始。オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。現地人は反植民地主義の「解放者」として出迎えるも、同年6月にはオランダと同様の統治体制が敷かれることになった。この際には、戦前からバリ島で商売を営み信望を集めていた民間人・三浦襄が日本軍の民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役、緩衝役となって活躍した
しかし、戦況の悪化に伴い物資、労働の徴集が強圧的に進められるようになると、現地の生活は困窮を極めることとなり、1944年の半ばからはジャワと連携した反日本軍運動も見られるようになった。
バリ島の観光開発は、1969年のデンパサール国際空港の開港によってマス・ツーリズム向けの大規模開発が始まり、当初は、サヌールとクタが観光のメッカとなった。やがて、1980年代に入るとヌサ・ドゥアヌサ・ドゥアで高級リゾート向けの計画的な開発が進められ、1990年代に入ると、開発の波はこれらの地域を越えるようになり、主にクタの南北に広がり、スミニャック、 レギャン ジンバラン” ジンバランタンジュン・ブノアタンジュン・ブノアに至るまで沿岸部に広大な観光地帯が形成されるようになった。スミニャックの北部には、タナロット寺院が位置している。サヌールやクタでは、爆弾テロ事件前後から当局と現地社会による治安維持のための取り締まりが進み、屋台なども排除されるようになっている。